パオーンtimes

VOL 6|2023年12月号

●Translation: トイレ係 ●Learning: 外傷への固定、無意識

Translation

 

~時代と海を超えた、はたらく人々からの手紙~

1974年、アメリカで『仕事』(Working)という
ぶあつい本(約800ページ)が刊行されました。
作家やメディアで活躍するStuds Terkelが
膨大な数の「普通の人々」に直接会いに出向き
彼らの自宅やレストラン、ときにはバーなどで
仕事に関する話を聞いたインタビュー集です。
仕事とは? 生きるとは? 人間とは?
血の通った教科書のようなこの本から
毎月一人ずつ、一部抜粋・翻訳してお届けします。

 

老舗高級ホテルのトイレ係として働いて15年目。以前は寝台列車のボーイに長い間従事していたが、寝台車の乗客の減少とともにそのキャリアを終えた。62歳・男性。

この仕事は楽で簡単です。だからこの仕事を選びました。もっと良い仕事に就けたかもしれませんが、もう年をとりすぎました。

仕事は機械的なものです。やって来る人を待てばよく、考える必要はありません。ほとんど反射的に動いています。トイレ用の備品をセッティングして、タオルも用意して、それで準備は終わり。一般男性が自分の家のトイレに置いているようなものは全部そろえています。荷物を運んだり、掃除したりはしません。それはホテル側の仕事です。

来た人にタオルを渡し、ほうきで1~2回掃いて、その人からもらえるのは25セントです。チップとしてもらうので、いつももらえるわけではありません。もっとサービスして、もっともらえることもあります。

自分の仕事に誇りは持っていません。もうそのことに慣れました。誇りを持てないからと言って、それが何か自分に影響することもありません。数年前だったら・・・、自分の仕事がいかにつまらないか、人に話すことはできませんでした。こんな立場に置かれた自分自身に苛立っていたのです。

何年も経って、今はそんな気持ちになることはありません。私は、めったにない状況に置かれていて、今もまだそのことを十分には理解できていませんが、もうしばらくしたら理解できるでしょう。特に、自分と同じことをしている人を見るとそう思います。そのことが一番理解を速めてくれます。もし自分しかいなかったら・・・。でも他にもいるんです。だからそんなに悪いことでもありません。

そもそも、この仕事は必要ないんです。余計な仕事です。かつて一度も必要だったことはありません(笑)。ただのあくどい商売です。

ずっと作家になりたいと思っていました。母親が作家だったんです。短編をいくつか出版しました。本を読むのが楽しかったから、書くのも楽しいだろうと思っていました。母の才能を少しは受け継いでいるだろうと思っていましたが、はっきりと、それは間違いでしたね。彼女の欲望だけを受け継いだんですかね(くすくす笑い)。ただ、思っていただけですけど・・・。

自分の仕事は稼ぎが良くてやりがいがあると言いたがる人がほとんどですが、私は言えません。

【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 153-158.

 

Learning

 

~フロイト式世渡りことば~

精神分析学をご存じでしょうか。
今からおよそ100年ほど前、
オーストリアの医師ジークムント・フロイトが
人間の心を探求し、つくり上げた学問。
一見難しそうですが、とても親しみやすい内容で
日常を生き抜くヒントにあふれています。
そんな理論から浮かび上がる“世渡りことば”で
人生の荒波をたくましく乗りこなしましょう!

 

失錯行為や夢ほど身近ではないものの、同じように人間に付きものである強迫神経症。生活や人生に支障をきたしてまでも、どうしてもやらずにはいられない強迫的行為に悩まされる病です。患者を救い出すために、フロイトはその真因や意図、そして、“人類への警告”を見出しました。

たとえば、いたって善良な夫が、陰で若い女性と情事を重ねているという嫉妬妄想から逃れられない女性。あるいは、就寝時、毎日2時間もかけてベッドや周りの環境を整えないと気が済まない女性。あるいは、一日に何度も、自分の部屋から隣室に駆けこんではそこに女中を呼びつけ、どうでもよいような用事を言いつけたり、何も言いつけないで引き下がらせたりを繰り返してしまう女性。

フロイトの観察と分析により、これらの強迫的行為は、自らのうちに爪痕を残した過去の出来事に由来していることが明らかになりました。患者の心は、無意識のうちにその外傷的な場面に固定されていて、それから自由になることができずに、手を変え、品を変え、その場面を強迫的に反復していたのです。

そして切実なことに、患者は、その過去の場面をただ反復していたのではなく、その場面を演じ続けながらもそれに修正を加え、自分が正しいと思う方向に向けさせようという意図を抱えていました

「強迫的」ということは、私たちが思う以上に厳しいものです。それは当人にとっていわば「掟」であり、どうあっても従わなければならず、「どうして?」「なぜやめられない?」などと自問してみても何の役にも立ちません。だからこそフロイトは、「無意識」というものの存在に目を向けざるを得ませんでした。

当時、その考え方が非科学的であり、間に合わせの概念に過ぎないという批判が多くあったそうですが、フロイトはこうした批判に対しても、「肩をすぼめながらも断固として拒否しなければならない」と述べています。

神経症の症候が現に実在し、苦しんでいる患者がいる。フロイトは、功名心や学問的野心から、いたずらに無意識を取りあげていたのではなく、実際に無意識を踏まえて考えなければ、その症候の意味が明らかになることも、患者が救われることもなかったのです。

いま、「トラウマ」という言葉は日常でよく使われています。そのなかで、「私にはこういうトラウマがあるから・・・」といった表現で耳にしたり、口にしたりしたことはないでしょうか? 残念ながら、この使い方はあまり正しくありません。

外傷体験、すなわちトラウマが原因となって、ある症候が現れるためには、その意味が無意識的であるという条件が必要です。精神分析などによって、症候を生み出している無意識的な過程が意識化されるや否や、その症候は消えてしまいます。なので、本人がはじめからトラウマを意識し、それがこういう形で現在に影響を及ぼしている、と理解することはできません。すでに書いたように、神経症の症候は、理屈や良し悪しや好き嫌いではなく、「どうあっても従わねばならない」からこそ、人間を苦しませるのです。

歴史上、科学によって人類は二度の侮辱を経験してきました。第一は、地動説によって、地球が宇宙の中心ではなく、大きな宇宙系のほんの一部分にすぎないと知った時、そして第二は、進化論によって、人間が人間として創造されたものではなく、動物界から進化したものだと知った時です。

フロイトはこの、人間の思いあがった気持ちに対する侮辱の歴史に、「第三の、最も手痛い侮辱」を付けくわえました。つまり、自分が意識している「自分」というものは、わが家の主人であるどころか、心の中で無意識的に起こっていることについては、わずかな報告を頼りにしているに過ぎない、という事実を人類は知らされたのです。

第一次世界大戦のさなかにあった当時、フロイトは、人類に反省をうながすこの警告について、「最も強く主張し、だれの胸にも思い当るような経験材料によって立証していくこと」こそが、精神分析の使命であると考えていました。

【参考文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集2 精神分析入門〈下〉』(1970年、東京:日本教文社)
pp. 3-71.