パオーンtimes

VOL 1|2023年07月号

●Translation: 作家・俳優・ブロードキャスター ●Learning: 失錯行為(前編)

Translation

 

~時代と海を超えた、はたらく人々からの手紙~

1974年、アメリカで『仕事』(Working)という
ぶあつい本(約800ページ)が刊行されました。
作家やメディアで活躍するStuds Terkelが
膨大な数の「普通の人々」に直接会いに出向き
彼らの自宅やレストラン、ときにはバーなどで
仕事に関する話を聞いたインタビュー集です。
仕事とは? 生きるとは? 人間とは?
血の通った教科書のようなこの本から
毎月一人ずつ、翻訳・編集してお届けします。

 

第1回目の今回は、『Working』の著者による「まえがき」の一部をお届けします。今からおよそ50年前の当時、彼はいったいどんな思いで、このような大仕事をやり遂げたのでしょうか。

「仕事についてのこの本は、本質的には、体と魂への暴力についてのものです。一日働いて生き延びられただけで、十分に勝利です。無数の人々の中で、誰もが傷だらけになって歩いているのですから。

今回の冒険の間、私はただの旅するよそ者でした。もらうものは多いのに、あげられるものはほんのわずか。夕食や昼食、お酒、ときには朝食をとりながら、高級な店のこともあれば、ファストフード店のこともありました。大工の道具箱や、医者の黒い鞄と同じように何の変哲もない私のテープレコーダーは、お金に換えられない価値のものを運んでくれました。

ある消防士に話を聞いた日のこと、私は、ある恥ずべきことをしてしまいました。ひととおり話を聞き終えた後、彼が「夕食でもどう? 角のところに安いイタリアンがあるんだ」と誘ってくれました。私はボソボソとつぶやくように、「町の反対側で、今度はホテルマンに会わないといけないんだ」と答えました。すると彼は言いました。「そりゃないよ。家にやって来て、午後じゅうずっと話をして、僕の人生を録音したかと思ったら、『行かなきゃ』なんてさ…」。その日の夕食は思い出深いものになりました。しかし、今考えても、私の最初の反応は本当に心無いものでした。

ある人は、話を終えた後、「自分がこんなふうに思っていたなんて知らなかった」と言いました。片手にマイク、テーブルの上にはテープレコーダー。そうやって、有名人の声を記録することもできますが、名もなき人々の声を記録することもできるのです。公営団地の階段で、家具のある部屋の中で、駐車場の車の中で…。その「記録」には人間味があり、ひとつひとつが唯一無二のものです。つくづく、驚くべきことです。

インタビューではありますが、基本的には、気のおけないやり取りといったものでした。お酒を飲みながら、自分が何か相手に聞いたり、今度は自分が聞かれたりするようなことと同じです。つまり会話です。ときには、抑え込まれていた痛みや夢が、水門が開けられたように出てくることもありましたが。

3年かけて話を聞いて回る間、想像していた以上に何度も宝物に出くわしました。普通の人々が抱く並外れた理想に、私は何度も驚かされました。どんなに時代に翻弄されても、また、社会から発せられる言葉がどんなに私たちを騙そうとしていても、いわゆる「普通」と呼ばれる人々は、自分の仕事の価値をよく自覚しているのです。」

【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. xiii-xxx.

 

Learning

 

~フロイト式世渡りことば~

 

精神分析学をご存じでしょうか。
今からおよそ100年ほど前、
オーストリアの医師ジークムント・フロイトが
人間の心を探求し、つくり上げた学問。
一見難しそうですが、とても親しみやすい内容で
日常を生き抜くヒントにあふれています。
そんな理論から浮かび上がる“世渡りことば”で
人生の荒波をたくましく乗りこなしましょう!

 

ついうっかり言い違えた、書き違えた、度忘れしてしまった。その失錯行為、本当にただのついうっかり? 望んでやる行動よりも、思いがけない失敗にこそ、自分の心は救われている…?

精神分析学の創始者であるフロイトは、私たちの心に潜む「無意識」の存在を発見しました。心の中の大部分は謎に満ちた深遠な世界であり、私たち人間はいつも、その無意識と意識との間で揺さぶられながら生きている不安定な存在であることを明らかにしたのです。

そんなフロイトが目をつけたのが「失錯(しっさく)行為」でした。当時、医師や一般の人々に行なった講義の中で、「皆さん!」と呼びかけながら、フロイトがその心理について話す様子は痛快です。

たとえば、とある会議を開始する際に議長が、「ここに“閉会”を宣言します」と言い違えたのは、会議を早く終わらせたかったから。または、乾杯(anstoßen)の音頭をとろうとした部下が、「皆さん、上司の健康を祝して、“ゲップ(anfstoßen)”しましょう」と言い違えたのは、部下がその上司をまったく尊敬していないから。はたまた、医者から、家では夫の好きなものを何でも食べさせて良いと説明された妻が、「わかりました、これからは“私の”好きなものを何でも食べさせていいんですね」と言い違えたのは、彼女がカカア天下だから。

人間についての概念を一変させ、医学をはじめ様々な学問の世界に影響を与えたフロイトですが、その考察の土台となっていたのは、あくまで人間くさい日常だったのです。

そして、それまでは特に注意を向けられることのなかった「失錯行為」をじっくり観察しながら、フロイトは考えます。

言い違えたことに内容や意味を持たせることで、言い違いもまた、目的をもったまともな行為になる。“失錯行為”と言ってきたけれども、失錯行為そのものが本来の行為であって、だからこそ、予定されたり意図されたりしていた行為に代わって現れたのではないか。

失敗から学ぶ、とか、失敗は成功の母、とよく言います。失敗を反省し、次に活かすことで、より良い結果につなげるという意味です。しかし、フロイトの考えはそれとは違うようです。

「失錯」とは、思いもよらないところからひょっこり顔を覗かせた、「自分の中の他人」のようなもの。その存在を認めることで、私たちは、自分を窮屈にしている「思い通り」という仮面をひとつ脱ぎ捨てることができます。と同時に、謎に満ちた無意識の世界に埋もれた心がほんの少し解放されて、しばし穏やかな状態を味わうことができるのです。

【参考文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集1 精神分析入門〈上〉』(1969年、東京:日本教文社)
pp. 1-40.