パオーンtimes

VOL 2|2023年08月号

●Translation: 割賦販売業者 ●Learning: 失錯行為(後編)

Translation

 

~時代と海を超えた、はたらく人々からの手紙~

1974年、アメリカで『仕事』(Working)という
ぶあつい本(約800ページ)が刊行されました。
作家やメディアで活躍するStuds Terkelが
膨大な数の「普通の人々」に直接会いに出向き
彼らの自宅やレストラン、ときにはバーなどで
仕事に関する話を聞いたインタビュー集です。
仕事とは? 生きるとは? 人間とは?
血の通った教科書のようなこの本から
毎月一人ずつ、翻訳・編集してお届けします。

 

業界20年目の53歳・男性。日々、各家庭へ御用を聞いて回り、住人が求める家具・家電・衣類などを店舗から買い付けて納入し、手数料付きの割賦で支払いをとりまとめる。

「私を求める人はたくさんいます。心理的に求めているのです。自分で店に行き、ぶっきらぼうな店員や陰気な店長に応対されるのとは違って、私の場合、自ら客のところへ出向いていって、「こんにちは、奥さん。ご主人や娘さんは元気ですか?」と声をかけ、ときにはきわどいジョークのひとつなんかも言うんですから。自分のキャラクターを売っているようなものです。

この仕事で成功したければ、家を訪問して、ソファが破れているな、カーペットが擦り切れているな、自分が座っている椅子が壊れているな、この子供の人数だったらこのトースターが必要だな、ということをよく観察することです。そして、良い顧客がいたら、ずっと買い続けるようにすること。自分に借りがある状態を保つんです。何より最悪なのは、良い顧客の支払いが終わってしまうこと。彼らが借金すればするほどいいってことです。

集金は本当に気が滅入ります。だから妻には何度も言っているんです。「私が夜帰ってきたら、たとえケンカしたあとでも、かならず玄関で出迎えてキスをしてくれ」って。だって、一日中、各家庭のドアをノックして回り、返ってくるのは「チッ」とか「クソッ」とかいう言葉ばっかりなんですからね。

若い人たちがこの仕事に就きたがらないことはわかっていますよ。一度、息子に仕事を手伝ってくれるよう頼もうとしたことがあるんです。そしたら彼の妻が割って入ってきて、「自分の夫が人に“つけこむ”手助けをするのは嫌だ」と言ったんです。もちろん、彼女も、利益なんて、多かれ少なかれ人々につけこんでいるから得られるってことをわかってはいるんですけどね。

ただ、私は、自分が人につけこんでいるとは思いません。人々が個人的なつながりを求める限り、この仕事が存在できる余地はなくならないと思うんです。」

【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 132-139.

 

Learning

 

~フロイト式世渡りことば~

精神分析学をご存じでしょうか。
今からおよそ100年ほど前、
オーストリアの医師ジークムント・フロイトが
人間の心を探求し、つくり上げた学問。
一見難しそうですが、とても親しみやすい内容で
日常を生き抜くヒントにあふれています。
そんな理論から浮かび上がる“世渡りことば”で
人生の荒波をたくましく乗りこなしましょう!

 

深層心理のこととなると、人々から反発を覚えられることも少なくなかったようです。しかしフロイトはその「闇」に果敢に挑み続けます。ぼんやりした幻想に浸るより、大切なことがある…!

それまでは取るに足りないものとして扱われていたうっかりミスに着目し、たくさんの実例を観察したフロイト。そこに「特有の意味」を見出し、「厳粛な心的行為」、つまり、ふだんは見えない心の中を垣間見れる貴重なチャンスと考えました。

しかし、失錯行為そのものを取り上げ、こっちはこういう意味がある、そっちはこんな意味だ、とカタログ的に並べることがフロイトの目的ではありません。こんどは、妨害される意図と妨害する意図との関係性に着目します。

別の本心があって、もしそれが外に出たいのであれば素直に出てくればいいし、そうでなければまったく出てこなければいいものを、なぜ、もともとの意図を妨害し、うっかりミスというへんな形で出てきてしまうのか?

前回書いたように、妨害する意図によって起こった「失錯行為」という、いわば「自分の中の小さな他人」が存在するためには、まず私たち自身が「それにも意味があるよ」と認めなければなりませんでした。うっかりミスをきっかけとして、そこにきちんと目を向け、「自分は本当はこんな気持ちだったんだ」とか「あなたは本当はこんなふうに思っていたんですね」と認めることで、もともとの意図とは別の意図が存在できるようになるのです。

そして、フロイトが面白いのは、このように妨害する意図を「認める」という中には、「たしかにそうだ」と肯定することだけでなく、「絶対に違う」と否定することも含まれると言っているところです。

例えば、「上司の健康を祝して乾杯しましょう!」と言うつもりだった人が「ゲップしましょう!」とうっかり言い違えたエピソードがありました。言い違えた本人が、フロイトから「こんな言い違いをするとは、あなたは本心では上司をまったく尊敬していないんですね」と説明されます。それを聞いた彼は「なにバカなことを言ってるんだ。あの上司はすごく偉いんだぞ。尊敬していないはずないだろう。うっかり言い違えただけで大げさだ」と強く否定します。しかし、もう、フロイトにしてみれば「そんな一生懸命否定しちゃって。や~っぱり尊敬してないんだぁ(ニヤリ)」としかならないのです。

こんなフロイトの言い分を見て、精神分析に反感を抱く人も少なからずいるかもしれませんが、話の展開をよく読んでみると、それはけっして横暴な考えではないことがわかります。

フロイトが言いたいのは、「心の自由などという、お花畑みたいな幻想を抱くな」ということなのです。肯定のかたちであれ否定のかたちであれ、思いがけない失錯行為に関する本人のリアクションを、とにかくすべて「妨害する意図の承認」として扱うということ。それは、当時まだ十分目を向けられておらず、もしかしたら見たくないものも潜んでいるかもしれない心の奥に、初めて科学的に迫っていこうという、精神分析の勇気ある精神(頭痛が痛い、みたいですが)の表れなのです。たとえ本人が強く否定する行為だったとしても、いったんその失錯行為があらわれてしまった以上、都合が悪いからといって打ち消したりして自由にコントロールしようとせず、まずはそこから探求を始めよう、ということです。

とにもかくにも、肯定によって承認された意図であれ、否定によって承認された意図であれ、どちらの場合でも、妨害する意図がうっかりミスとして外にあらわれる前に、いったんは押しのけられている、ということは共通しています。押しのけようと決心された後に、もともと言おうとしていたことと混じり合ったり取って代わったりすることによって、言葉に出たのです。

さて、ここで最初の疑問に戻ります。別の本心(妨害する意図)は、なぜ、うっかりミスというへんな形でしか出てこれなかったのか?

これに対するフロイトの仮説はこうです。

ある意図は、それが妨害する意図となる前に、それ自身がまず妨害されたに違いない。そのために、他の意図を妨害するという形でしか外にあらわれることができなかったのだ。さらに、その妨害する意図のなかには、かなり以前から、おそらくはずっと久しい以前から押しのけられていて気づかれず、そのために、外にあらわれたときに話し手がきっぱり否定してしまうような意図さえもありうるのではないか――。

このようにして、フロイトは、徐々に心という闇に分け入っていくのです。

【参考文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集1 精神分析入門〈上〉』(1969年、東京:日本教文社)
pp. 41-103.