VOL 3|2023年09月号
一般家庭へ電話をかけ、新聞の定期購読を勧誘。3か月間勤務したのち退社。30人ほどの女性たちが働くそのオフィスは、誰もが羨む「北ミシガン通り」に面したビルの中にあったが…。
仕事を探しているとき、「人種不問/基本給プラス歩合給」と書かれた新聞の広告を見つけたんです。あの北ミシガン通りで働けるなんて、胸が躍りました。しかも、ただ新聞の注文を受けるだけでいいんですから。
与えられたカードに書かれた番号に電話して、決められたことを言うのが仕事でした。「何か新聞を購読されていますか? まずは3か月間だけでも購読してみませんか? その間の購読料は、目の見えない子供たちや慈善団体に寄付されます。3か月後に契約を解除してもいいのです。彼らがあなたを必要としています」。
一日に9~10件の契約を獲得するのがノルマでした。もしノルマを達成できなかったら、「給料じゃなくて補助金を支給している」と言われました(笑)。“補助金”が2回以上続いたらクビです。
誰もが北ミシガン通りで働きたがっていました。でも、一緒に働いていた人のほとんどが辞めていきました。パワハラ上司が言うには、「彼女たちは十分な契約を取れなかった」ということでした。嘘をつくのが上手な人が求められ、残っていく職場で、長く働いている人を見ていると、噓をつくことを楽しんでいるみたいでした。
私にとって転機になった出来事があります。私はいつも通り勧誘の電話をかけていました。相手の男性は、私の話に辛抱強く耳を傾けたあと、言ったのです。「本当に、何か力になってあげたいよ」。実は、彼自身、目が見えなかったのです! 本当に衝撃でした…彼のあの声…。私はただ、「あなたはいい人ですね」と言うことしかできませんでした。しかも、彼の電話番号は、特に貧しい地域の番号だったんです。
私は彼に謝り、お礼を言って電話を切ったあと、トイレに駆け込みました。トイレの中でひたすら祈りました。「神様、私にはここよりいいところがあるはずですよね。私はもうこの先誰も傷つけたくありません。神様」。
その祈りが通じたのか、そのあと新しい仕事が見つかり転職しました。今の仕事はとても気に入っています。
【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 139-143.
~フロイト式世渡りことば~
取るに足りないようなことのうちに、進むべき道を切り開いていったフロイト。眠っているときに見る「夢」もその対象でした。あまりにとりとめがなく、現実離れしていて、重大な意味を見いだすことなど不可能に思える夢の“解明”は、いったい何のため…?
フロイトは、どんなものごとに対しても「こんなものだろう」と決めてかかることをしません。だからこそ、夢に重大な意味を見いだすという、昔ながらの迷信めいたことにも真摯に取り組むのです。
その本質は、合理性や意識といった、うわべ上のものに偏りすぎている世の中への反骨精神にほかなりません。別の言い方をすれば、古来より人々が肌感覚で築きあげてきた豊かな英知を、合理的でないからと言ってないがしろにしては、人類は誤った方向に進んでしまうという危機感でした。
さて、そうはいっても、合理性や意識は、もはや人々の生活全体にべったりと張り付いている手ごわい存在。そこでフロイトがあみ出したのが「自由連想」というやり方でした。
不意にあらわれた不可解な夢について、思いついたことを自由に話していく自由連想。あらわれたものがどんなに意味不明でも、不快でも、「それでもやはり存在する」と受けとめながら、「これは何?」「こういうことじゃないかな」「それってどういうこと?」と、次から次へと連なる想いに心を委ねるのです。
この作業によって、意識にがんじがらめになって熟考することから解放され、新たな意味へと到達することを目指します。それは、神秘的な心のなかを、あてもなく、着の身着のまま、しかし新たな出会いへの好奇心をもって旅するようなものだといえます。
このように、フロイトのいう「自由」とは、一般的に思い浮かぶ「自由」のイメージとは異なります。フロイトにとって自由とは、自分の思い通りに、やりたいことを叶えることではありません。なぜなら、私たちは、意識が遠く及ばない「何か」に支配されていて、いつも知らずとその影響を受けているからです。そうではなく、フロイトのいう「自由」とは、意識的で表面的な心地よさや願望にとらわれずに、深く深く、私たちを突き動かす「何か」を見つけにいくことなのです。
さまざまに加工され、歪曲されて、夢という形で意識にあらわれてきた「何か」。夢を見た本人はきっとその「何か」を知っているのに、知っているということを知らないだけで、そのために、自分はそれを知らないものと思い込んでいるにちがいない。このままでは人は本当の意味で自由になんかなれない。
そう考えたフロイトは、自由連想という、まるであの「ダーツの旅」のようなやり方で、夢を旅せよと訴えるのです。
【参考文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集1 精神分析入門〈上〉』(1969年、東京:日本教文社)
pp. 107-172.