VOL 4|2023年10月号
市のゴミ収集車の運転手として勤務して18年目。41歳男性、既婚、3人の娘がいる。週5日、40時間勤務。たまに残業になることも。
だいたい朝の5時15分に起きて、駐車場に向かい、オイルと水の量をチェックして、区の作業場に行きます。同じチームの作業員と合流し、指示書を持って出発します。
牛乳配達員が馬に乗っているのと同じです。笛で合図をして、「シューッ!(止まれ!)」と言うだけ。路地一本につき30か所で止まります。1週間で回らなければならない路地は19本。それで1ユニットと呼ばれています。ときどき回り切れないときもあるくらいの仕事量です。
ここで働いていると、何も我慢しなくて良いですね。仲間と何でも話します。ゴルフのこととか、そんなこと。仲間の一人が新居を購入したときには、引っ越しで物を運ぶのを手伝ったりしましたよ。彼も、私の家の配管やペンキ塗りを手伝ってくれたことがあります。
仕事は何かと聞かれたら「ゴミ収集車を運転してるよ」と答えます。何も恥じることはありません。そこに自分の8時間を費やし、給料も良いです。自分でお金を稼いでいるという実感があります。どこでも行きたいところへ行けますし、妻も幸せに暮らしています。ホワイトカラーの人から見下されようと、私にはその方がより重要なのです。
自分の給料を人と比べるのは好きではありませんし、自分たちの給料が学校の先生よりも高いということを耳にするのも嫌です。先生と同様、私も自分のお金を稼いでいるだけです。先生はもっともらうべきだと思いますが、その分を自分の給料から引かれたくはありません。
【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 147-150.
~フロイト式世渡りことば~
夢をあのように異様なものにしている心の働きとは? 現実の世界とはまるで違う、でもともすれば毎日のように訪れる夢の世界は、じつは私たちのたくみな表現力と、人としての源泉があってこそのものでした。
夢が異様なものとなるのは、何が原因で、何を、どのように行なった結果なのか。フロイトはまず「夢の検閲」という言い方で説明しています。
心のなかの諸々は、夢として現れる前に、まるできびしい検閲を通ってきた黒塗り文書のように、省略、模様変え、編成変えなどを受けている。そうした検閲を行なうのは、覚醒時に行なう判断の元となるような、自分でピッタリ感じられるような意向である。一方で、そうした検閲の対象となるのは、倫理的、美的、社会的観点から見て不快なものであり、あえて考えたくはないか、嫌悪感を抱かせるような「いまわしい願望」であると、フロイトは考えました。
しかし、こうした検閲だけが、夢を不可解なものにする原因ではありません。前回触れた「自由連想」などでその検閲を取り除いたとしてもなかなか意味がつかめないものが、夢にはしばしば現れます。それを解明するために、フロイトは、童話や神話、冗談や洒落、民間伝承などの形で連綿と受け継がれてきた「象徴的表現」を参照します。象徴的表現とは、たとえば、「両親」は夢のなかでは「王と王妃」で現れるとか、それに対して「子供」は「小動物や害虫」の形で現れるといった、古くから人類の間で自然と慣れ親しまれてきた比較表現のことです。
不思議なのは、夢のなかではそうした豊かな表現が自由に用いられるのに、覚醒時には、それらは知られもせず思い出されもしないということです。つまり、象徴的表現の知識は無意識的なものであり、自分が生きているなかで得たものというよりも、生まれる前からでき上がっていて、すでにちゃんと決まっているものだと言えます。また、注目すべきは、そうした象徴的表現は、夢に限らず、神話や童話、歌謡のなかでもふつうに現れますが、夢に限っては、象徴表現はもっぱら性的な対象や性的な関係を表すために用いられていたのです。
象徴的表現は、夢を異様なものにする原因の一つであり、何かと隠ぺいしたい意向を持つ「夢の検閲」にとっても好都合に違いありません。そのうえで、フロイトは、象徴的表現が神話、宗教、芸術および言語のなかにひろがっていることは明らかなのに、夢の象徴性ということになると、教養ある人々の間で激しい抵抗に出会う事実に照らし合わせて、「いまわしい願望」と性的なものとの間に、ひとつの「公式」を見いだしていったのです。
【参考文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集1 精神分析入門〈上〉』(1969年、東京:日本教文社)
pp. 173-259.