パオーンtimes

VOL 9|2024年03月号

●Translation: ビルの管理人 ●Learning: 人間の性生活

Translation

 

~時代と海を超えた、はたらく人々からの手紙~

1974年、アメリカで『仕事』(Working)という
ぶあつい本(約800ページ)が刊行されました。
作家やメディアで活躍するStuds Terkelが
膨大な数の「普通の人々」に直接会いに出向き、
彼らの自宅やレストラン、ときにはバーなどで、
仕事に関する話を聞いたインタビュー集です。
仕事とは? 生きるとは? 人間とは?
血の通った教科書のようなこの本から、
毎月一人ずつ、一部抜粋・翻訳してお届けします。

 

43歳・男性。管理人になって22年目。結婚した日に管理人の仕事を得て、次の日から従事。亡くなった父も同じ仕事をしていた。

厳しい冬日になるっていう日に、気象予報士が管理人の名前を言うのなんか聞いたことありませんね。線路で働く人や外で働く人のことは言うかもしれません。でも、シカゴで雪が降ったとき、歩道を清掃しなきゃならないのが管理人だってことがわかっていないんでしょう。彼らはみんなに向かって「落ち着いて。仕事はほどほどに。」とかなんとか言いますが、本当に外に出て除雪しなきゃならない人に触れることはないんですよね。

主にエレベーターのないビルを担当しています。築40年のビルもあれば、最近流行っている4プラス1階建てのビルもあります。これが管理が大変でやっかいなんです。開放的で、地下には駐車場があるんですが、ゴミが入り込んでくるし、寒い日には配管が凍ってしまうんです。いったい誰が設計したんだか・・・!

古いビルは新しいビルよりトラブルが少なく、管理が簡単です。新しいビルでは、より少ないスペースのためにより高い賃料が支払われています。古いビルで用いられている鋳鉄製の配管は交換可能ですから、新しいビルよりもずっと長持ちしますよ。

もうすぐ21歳になる息子が結婚したんです。私はおじいちゃんです。数学ができる子だったので、イリノイ工科大学に進学してほしいと思っていました。でも進学せずに結婚しました。内心本当にがっかりしました。彼は言うんです。「お父さん、なんで僕がお父さんのお金をすべて使って大学に行かなきゃならないの。トラックの運転手として働いて、大学を卒業した人よりもいっぱいお金を稼げるのに。」「でもな、世の中には2種類の仕事があるんだよ。」と私は言いました。

私は大学を信じてるんです。自分は行く機会に恵まれなかったから、余計に。大学は誰も傷つけません。息子は私のお金を大事に思ってくれたわけですし、息子自身が良いと思うことをやっているのだとは思いますが・・・。

【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 169-178.

 

Learning

 

~フロイト式世渡りことば~

精神分析学をご存じでしょうか。
今からおよそ100年ほど前、
オーストリアの医師ジークムント・フロイトが
人間の心を探求し、つくり上げた学問。
一見難しそうですが、とても親しみやすい内容で、
日常を生き抜くヒントにあふれています。
そんな理論から浮かび上がる“世渡りことば”で、
人生の荒波をたくましく乗りこなしましょう!

 

最近耳にすることの多くなった「多様性」という言葉。多様性を尊重しよう、多様性を認め合おう。聞こえはいいものの、実際に多様性の中で生きていくことは、きれいごとだけではないし、なかなか疲れることのようにも思えますが…。

フロイトの考えに触れると、多様性というものが、とくに今の時代に新しく取ってつけられた価値観ではなく、むしろこれまで押さえ込まれていたものだったことに気づかされます。

神経症の症候について、精神分析的解釈の手法を用いて原因を探るうちに、フロイトは、「症候は性的満足を意図しているか、あるいは性的満足の防御を意図しているかのいずれか」だと考えるようになります。そして、こうした考えには、当然のように多くの反発が寄せられました。

そこでフロイトが皆に投げかけたのが、「性的なるもの」は果たして適切に定義されているのか、という疑問でした。一般的にそれは、わいせつなものであり、口にしてはならないものとされているが、それは本当に正しいのか。生殖機能に関わっており、世の中に役立つものとされているが、それだけで十分なのか。

神経症の患者を多く観察する中で、いわゆる「普通」や「正常」ではないきわめて風変わりな行為に及ぶ人々をたくさん目にしてきたフロイトは、これまでの定義ではこぼれ落ちるものがあることをよく知っていたのです。そして、次のように述べています。

「もしわれわれが、性に関するこれらの病的形態を理解できず、それを正常な性生活との関連の上で把握することができないとしたら、われわれはとりもなおさず正常な性についても理解していないということになります。」

おっしゃるとおり!と言うほかありません。自分と違うものを理解しようともせずに、いったい何が「自分」なのでしょうか。役に立たないものに目を向けようともせず、いったいどうして「これは役立つ」と言えるのでしょうか。

フロイトが診てきた神経症の患者たちは、性的な対象になりそうもないものをその対象としたり、性的満足を与えてくれそうにない行為からその満足を得たりしていました。フロイトはこれを「性的倒錯」と呼び、さらに考えを進めるうちに、人間にはこの「性的倒錯」が必然となる時期があることに気づきます。その時期とは、子供時代です。

なぜなら子供にとって、性が生殖機能(役立つもの)であるとは、たとえぼんやりとでも思いつかないことだからです。そして一方、生殖目的の放棄は、すべての倒錯に共通の性格です。病的なものであれ、病的とまではいかないものであれ、生殖とは無関係に快感獲得を追い求める場合に、私たちはそれをまさに「倒錯的」と呼ぶのです。それゆえ、フロイトは次のように結論づけます。

「性生活の発達上の明瞭な転回点は、性生活が生殖という目的の下に従属させられるにいたる時点にあることが、おわかりになるでしょう。この転回以前に起こるすべての現象は、転回をまぬかれ、快感獲得のためにのみ奉仕するすべてのことと同様に、『倒錯』という不名誉な名前をつけられて追放されるのです。」

以上のようにしてフロイトは、性の概念を「子供時代」にまで広げることで、いわゆる「正常な人々」と、神経症の患者をはじめとした「倒錯者」とを包括する考え方を見出しました。こうした考え方をわいせつだとする意見も当時多くあったそうですが、理屈をよくたどれば、決してそんなイメージを抱かせるものではないことがわかります。

私たちが「正常」「役立つ」などと言うとき、気づかないうちに何かに従属させられている可能性が常にあることを、フロイトは気づかせてくれます。「正常」や「役立つ」の枠外にある多様性に目を向け、尊重することは、ほかならぬ自分自身の自由を尊重することだったのです。理解できないものや自分と違うものに目を向けることには、いろんな意味で労力や犠牲がともないます。しかしその労力や犠牲を補って余りある価値があるということを、フロイトは、誰にでも身近な内容で教えてくれているのです。

【参考文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集2 精神分析入門〈下〉』(1970年、東京:日本教文社)
pp. 97-122.