パオーンtimes

VOL 10|2024年04月号

●Translation: ドアマン ●Learning: リビドーの発達と性的体制(前編)

Translation

 

~時代と海を超えた、はたらく人々からの手紙~

1974年、アメリカで『仕事』(Working)という
ぶあつい本(約800ページ)が刊行されました。
作家やメディアで活躍するStuds Terkelが
膨大な数の「普通の人々」に直接会いに出向き、
彼らの自宅やレストラン、ときにはバーなどで、
仕事に関する話を聞いたインタビュー集です。
仕事とは? 生きるとは? 人間とは?
血の通った教科書のようなこの本から、
毎月一人ずつ、一部抜粋・翻訳してお届けします。

 

65歳・男性。マンハッタンのアッパー・ウエスト・サイドにある巨大なビルのドアマンとして働く。古き良き時代を生き抜いたそのビルで、当時の優雅さの名残りを残すロビーのソファに座り、話を聞いた。

出入りする人たちを監視します。見知らぬ人が中に入ろうとしていたら、呼び止めて行き先を尋ねます。上階の人に電話をして知らせる必要があるからです。夜12時には鍵を閉めることになっています。昔は24時間開けっぱなしで、知らない人を呼び止める必要もありませんでした。

41年前からこのビルで働いています。その頃は一日に12時間、週に6日勤務していました。夜の7時から朝の7時までです。組合もなく、休暇も何もありませんでしたね。今は週5日、40時間勤務です。前よりずっといいです。

上流階級の人たちがここの部屋を借りていた時代は、彼らは私を見下していました。通りで私を見かけても、私のことなど知らんぷりでした。

時代は変わるものですね。今は違っていて、ふだんからもっとリベラルです。今や、彼らは私と議論するし、会話もします。上流階級の人たちでさえ変わりました。みんなが変わって、みんながフレンドリーです。私が冗談を言えば、彼らは聞いてくれます。対等だし、友情があるんです。昔、あるドアマンがタバコを吸っているところを目撃した住人が、管理人にそのことを伝えに行ったら、そのドアマンはすぐにクビになったこともありました。今はそんなことできませんよね。

でも、前の方がよかったのかもしれません。たとえば今は、ある黒人男性を呼び止めて行き先を尋ねると、「黒人が入って来るのを今まで見たことがないのか?」と言われたりします。私は、「そんなことはありませんが、これが私の仕事なんです。あなたが上で何をしてもかまいませんが、行き先を尋ねる義務があるんです。」と説明します。男性は、用を済ませてロビーに戻ってくると「本当にごめんなさい。よくわかっていなかったものだから」と言ってくれたんですが…。今みたいにリベラルな世間では、なんだかとにかくいろいろありますね。数年前まではこんなことありませんでしたけど。

【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 179-183.

 

Learning

 

~フロイト式世渡りことば~

精神分析学をご存じでしょうか。
今から100年以上前のオーストリアで、
医師のジークムント・フロイトが
人間の心を探求し、つくり上げた学問。
一見難しそうですが、とても親しみやすい内容で、
日常を生き抜くヒントにあふれています。
そんな理論から浮かび上がる“世渡りことば”で、
人生の荒波をたくましく乗りこなしましょう!

 

「幼児の性」は、フロイト理論の中核をなすもののひとつです。ところがそれは、ほとんどすべての人の感情を害す主張でした。そんな人々を前に、フロイトは丁寧に、しかし毅然とした態度でみずからの理論を説明しました。知的興奮を禁じえないその展開をぜひお楽しみください。

性の概念をわざわざ幼児にまで広げるなんてばかげている。幼児が授乳や排せつの際に感じる快感といっても、性的快感とはまた別のものだろう。そんなふうに突っぱねてしまいたいのも、もっともなことです。

しかし思い出したいのは、それまでは「意識的」と同じ意味だった「心的」という概念を、フロイトは「無意識的」にまで広げてみせたということです。同じように、「性的」という概念もまた、生殖に属するということ以上に、もっと広がりがあるのだと、そして、それによって救われるものがあるのだと、フロイトは気づいたのかもしれません。だから、もう少しその説明に耳を傾けてみましょう。

「性的倒錯」の本質は、変わった目標を持つことや、その行為や対象の多様性にあるのではありません。その本質はとりもなおさず、「生殖作用に役立つ性行為を押しのけてしまう排他性の中にのみある」とフロイトは言います。

こうした倒錯的な性と、正常な性との間には、しかしながら共通点もあります。それは、その人が起こすすべての行動が、ある一つの目標に向かって集中しているということです。いわば、両者とも「がっちりと組織された独裁政治」なのです。

ところが幼児の性は違います。身体の各部分がどれも等しい権利を持っていて、それぞれが自力で快感の獲得に専念しています。言ってみれば「職人同士で結成されたギルド(同業組合)」のようなもの。バラバラだけど、つながっている。

このことから、幼児の性が、倒錯的な性と正常な性という、目標の中身はまったく異なっている(つまり、バラバラな)反面、その目標への集中という点では共通している(つまり、つながっている)ふたつのものを生じさせたとしても、まったく不思議ではなくなります。

とはいえ、幼児にみられる快感獲得の現象を、単なる「器官快感」だとして、後年に起こる性的なものと分けて考えることには、なるほど一理あるようにも思えます。ただし、だとしたらいつ、それぞれの快感は性的なものに変わるのでしょうか? たとえば、性器がその役割を演じ始めるその時でしょうか? 

そうか。「性=生殖」と定義してしまうと、倒錯的な性には当てはまらなくなるという問題があった。となればもっと具体的に、性器がその役割を演じ始めたときに性的なものは生じる、つまり、「性=性器」と定義すれば、正常な性にも、倒錯的な性にも当てはまる…!

ここまで考えて、「あっ…」と気づいてしまいます。なんであれ身体の器官にもとづいて性を定義してしまったら、「性=器官快感」となり、フロイトが新たに幼児に見いだしたものと、基本的には変わらなくなってしまう…。

しかも、倒錯的な性において、性器が他の器官によって代理されることなどごくありふれていることは、フロイトの観察によってすでに明らかでした。幼児の性という主張に反発し、大人にみられる倒錯的な性や正常な性と区別したかったはずなのに、一周回ってもっと近づいてしまった…。

こうして、フロイトの次のような言葉が響きわたります。

「このようにして、皆さんのいわゆる性的なるものの特性を記述するために、皆さんが固執できるものは何ひとつないのだという証拠を突きつけられると、皆さんはたぶん私にならって、「性的」(sexuell)という名称を、器官快感を追求する早期幼児期の活動の上にも拡げる決心をしないではいられないだろうと思います。」

あっぱれと言うしかありません。感情を害されたがゆえの抵抗なんて、フロイト先生に通じるはずがなかったのです。

さて、以上のように性の概念を広げたことで、こんどはどんな景色が見えてくるのでしょうか。いよいよ次回、あの有名な「エディプス・コンプレックス」について見ていきます。

【参考・引用文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集2 精神分析入門〈下〉』(1970年、東京:日本教文社)
pp. 123-130.