パオーンtimes

VOL 11|2024年05月号

●Translation: 警察官 ●Learning: リビドーの発達と性的体制(中編)

Translation

 

~時代と海を超えた、はたらく人々からの手紙~

 

1974年、アメリカで『仕事』(Working)という
ぶあつい本(約800ページ)が刊行されました。
作家やメディアで活躍するStuds Terkelが
膨大な数の「普通の人々」に直接会いに出向き、
彼らの自宅やレストラン、ときにはバーなどで、
仕事に関する話を聞いたインタビュー集です。
仕事とは? 生きるとは? 人間とは?
血の通った教科書のようなこの本から、
毎月一人ずつ、一部抜粋・翻訳してお届けします。

 

39歳、男性。妻と3人の子供たちとは別居中。

暴行などの犯罪を犯した人を逮捕します。そいつを押さえつけるために、力づくでやらないといけない場合もありますし、発砲しないといけない場合もあります。粗暴だといって非難されますよ。私や、罪のない人たちに対して、そいつが何をしようと勝手なのに、私がそいつに手を出すのは許されていないんですからね。正義って何なんでしょう。

偽善者だと言われ責められてきました。私も一人の労働者なんです。人のことは顔で判断しますよ。ただ長髪だからといって過激な人とはみなしません。ただ黒人だからといって――私はむしろ彼らにとって身近な存在ですよ。

今は交通整理を担当しています。半分リタイアしてるようなものです(静かで悲しげな笑い)。なりたかったのは刑事ですが、なれませんでした。

オールドタウンに強盗を働くギャングがいて、当時、60~70件の未解決の強盗事件が起こっていました。彼らは娼婦たちと共謀していました。人を刺したり、殴ったり、撃ったりもしていました。ある夜、私がおとりになって捜査をしていたとき、男4人と銃撃戦になり、1人を殺し、1人に怪我をさせ、残りの2人を取り押さえました。自ら志願してやったことです。こうなるように仕向けられ、刑事になるチャンスを得ていたわけですが、なれませんでした。

今の仕事は仕事だと思っていません。R&R、つまりレスト(休憩)&レクレーション(娯楽)みたいなものですよ。今の私の一日は、無です。起きて、食べて、笛を吹く。心がわき立つようなことはあまりありません。熱中することもなく、ただ職場へ通う人間。自分のことをそんなふうに見ています。ゴミみたいな人たちから、見るなり「豚野郎」と言われる制服を着ているんですからね。「彼は人間だね」とは、彼らは言いません。私は法律を、世間の人たちを、市民を体現しているんです。人々が私の仕事を、私を作ったんです。周りの人にとっては制服を着たロボットでも、私は人間で、心があるんですよ(笑)。

【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 183-193.

 

Learning

 

~フロイト式世渡りことば~

精神分析学をご存じでしょうか。
今から100年以上前のオーストリアで、
医師のジークムント・フロイトが
人間の心を探求し、つくり上げた学問。
一見難しそうですが、とても親しみやすい内容で、
日常を生き抜くヒントにあふれています。
そんな理論から浮かび上がる“世渡りことば”で、
人生の荒波をたくましく乗りこなしましょう!

 

母親との近親相姦と父親殺し。古代ギリシャの戯曲『エディプス王』でエディプスが犯した2つの犯罪のうちに、フロイトは普遍的な心の在り様を見出し、エディプス・コンプレックスと名付けました。近親相姦願望や親との確執を描いた物語など無数にある中で、フロイトがほかでもないこの『エディプス王』に目をつけたのには理由がありました。

エディプスは生まれてすぐに、「自分の父を殺し、母を妻とするだろう」との神託を受け、親に捨てられました。その神託を知らずに成長したエディプスでしたが、知らなかったためとはいえ、やはりこの2つの罪を犯していたことを知り、自身の目をえぐり破滅します。(詳しいあらすじはこちら

フロイトが自らの理論を説明するのにこの悲劇を引きあいに出した理由は、エディプスを破滅に陥れた行為そのものよりもまず、行為の描かれ方にありました。フロイトは言います。

「このアテネの詩人の作品は、エディプスの遠い過去の所行が、巧妙にひき延ばされる審問の結果、そしてまた常に新たな前兆によって煽り立てられる審問の結果、しだいに露わにされて行くさまを描いています。つまりその限りでは、この作品は精神分析の進行とある種の類似性をもっています。」

そして、近親相姦という、普通ならばはげしい嫌悪感を抱かせてもおかしくないものを描いているにもかかわらず、この悲劇が観る者の心をとらえて離さないのは、まさにこうした描かれ方によるとフロイトは考えました。

つまり、「しだいに露わにされて行く」という過程を見せられることにより、観客は、エディプスが受けた神託を、自分自身の無意識がまとっている仮面がはがれ、内心が露わになった結果であるように感じるのです。父に代わって母を妻にしたいという願望を“想起”して、愕然と“せざるをえない”ように感じるのです。そうして、観客は、作者が自分に向かって次のように言おうとしているように感じるのだと、フロイトは指摘します。

「汝の責任を拒み、汝がこれらの犯罪的意図にいかに反対したかを誓おうと無益である。いかにもがこうと、汝は罪を免れぬ。何故といえば、汝はそれらの犯罪的意図を絶滅しえず、それらの意図は今なお無意識となって汝の心の中に存在しているからだ。」

どこからとも知れず立ち上ってくる禍々(まがまが)しいもの。生きる意味や生まれた根拠などわかるはずもなく死んでいく運命にある人間の真理を、その苦しみを、この悲劇は突きつけています。フロイトはそこに「無意識」という、いわば“名前未満の名前”を添えたのです。

エディプス・コンプレックスが、単に近親相姦的な願望をさすと思っている人も少なくないかもしれません。しかし、フロイトがほかでもない『エディプス王』に目をつけた理由を見ても、やはりそう単純に考えるべきではないことがわかります。くわしい理論の内容は次回見ていきたいと思いますが、つくづく、フロイトの理論は、中身以上に枠組みを与えてくれるものだと感じます。言い方を変えれば、正解以上に、どのように問い、どのように考えるべきかを教えてくれるのです。そのことによって、私たちは、人間として生まれた苦しみの中で、どのように生きるべきかを学んでいるのだと思います。

【参考・引用文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集2 精神分析入門〈下〉』(1970年、東京:日本教文社)
pp. 123-153.