VOL 12|2024年06月号
30歳、男性、黒人。シカゴ警察署に勤務して9年目。「アメリカ黒人警官連盟」(Afro-American Patrolmen’s League)の創設者。
この仕事を始めた頃は、賭博や麻薬中毒などを取り締まっていました。地域でこうした犯罪行為を見つけるのは、私にとってはごく簡単なことでした。黒人なら誰だってそうでしょうね。
本当に、スパイみたいな仕事ぶりでしたよ。当時私は21歳でしたが、若くして警官になり、人を捕まえるのはすばらしいことだと思っていました。警察の道に進んだ若者の多くはこんなふうに勘違いするものなんです。間もなく私は目が覚めましたけれど。
警察の仕事から商売人のような考えをなくすべきです。「人を一人呼び止めるごとに〇〇ポイントをあげるよ」なんて、警官に言うべきじゃありません。署に戻って上司に「何もありませんでした」と言おうものなら、「何かしらあることはわかってるんだ。いいから行って捕まえてこい」と言われるんですからね。だから警官は何かしら小さなことでもでっち上げないといけなくなるんです。警官が多ければ多いほど犯罪率が上がるなんて、明らかにおかしいでしょう。
若い警官とはあまり一緒に仕事をしませんでした。彼らは熱血そのもので、加減を知りません。私が一緒に仕事をしていたのはもっぱらベテランの警官たちです。彼らもまた黒人を嫌ってはいるのですが、私たちは一緒に働いたし、飲みにも行きました。
そんな中、打ちとけた関係の一人がこう言ったんです。「お前たちの人種は好きじゃない。でも一緒に働くことはできる。嫌うのは間違っているかもしれないが、そうやって育てられたんだ。今も、自分の子供たちが黒人と一緒に登校してるのを見ると、そんな感情になる。口に出して言おうとは思わない。でも怖がるのをやめろといくら説得されても、できないことなんだ」。
私はこうした彼の意見を尊重していましたし、彼もまた、私のことを尊重していました。私たちはうまく付き合っていたんです。
【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 193-201.
~フロイト式世渡りことば~
神経症患者をはじめとした人々が悩まされていた性的倒錯。そこに生殖目的の放棄という特徴を見出したフロイトは、同じく生殖とは無関係の、幼児の性という概念をつくりました。その観察と考察から見えてきたものは。
エディプスの人生って一体…。
本当に、とんでもなく、驚いたでしょう。かつて殺した男がじつは自分の父親だった。それだけでなく、その後結婚し子供をもうけた女が、じつは自分の母親だった。自分の人生何なんだろうと思ったに違いありません。エディプスの驚きを想像するにつけ、呆然としてしまいます。
フロイトは、幼児の性にみられる発達の最終段階として、このエディプスの名を冠した「エディプス・コンプレックス」をおきました。私たちはみな、多かれ少なかれエディプスの足跡をたどると考えたのです。
何度も反復される発達。
まず意外に思えるのは、性が、すでにできあがったものとしてあるのではなく、発達するものだということです。各器官がばらばらに快感を求めている状態から、対象との関係が始まったり、終わって自分に閉じこもったり、また新たに始まったりしていく。フロイトはその様子を「幼虫が蝶になるのに似た何度も反復される発達」と表現しています。
たとえば、唇という器官における性衝動の最初の対象は、乳児に栄養を与えてくれる母の乳房です。しだいにそれが「しゃぶる」という動作として独立し、乳房という対象を放棄して、自分の唇そのもので衝動を満足させるようになります。その後、そうした「自体愛」的な満足が無用なものとして捨て去られると、再び外界に対象を見つけにいく、という具合です。
フロイトが「愛」という言葉を使うとき。
このように錯綜した対象発見の最終段階について述べる中で、フロイトはついに「最初の愛の対象」に触れます。エディプスの時に感じたぞっとする驚きは、ここではなんと、せつないほどの愛おしさに変わります。フロイトは言います。
「潜伏期前の幼児期における対象発見の過程がある種の終結に達した場合、そこに見出される対象は、口唇期の快感衝動の最初の対象、すなわち有機体の基本的な欲求満足に依存することによってえられた対象と、ほとんど同一であることを強調したいと思います。それは、母の乳房でこそありませんが、やはり母なのです。われわれは母を最初の「愛の対象」と名づけます。すなわちわれわれは、性的な志向に含まれる心的側面に注目し、性的な志向の根底にある身体的ないし「官能的」な衝動興奮を抑制したり、ほんの一瞬間でも忘れていようとする時に、愛という言葉を使うのです。」
複雑さを抱えることで大人に近づいていく。
第一に、母はすでに一度対象であったということ。しかもそれは、生命の維持に欠かせない授乳という行為と不可分であったこと。第二に、再び対象としての母と出会うときにはもう、同時に抑制が働いているということ。むしろ抑制があるからこそ、出会えるということ。人間とは、こんなふうにして対象との関係を生きなければならない、単純なようで複雑な存在なのです。
「コンプレックス」とは劣等感という意味ではなく、「複合体」というような意味です。エディプス・コンプレックスは、単純に母親への欲望を指すのでもなければ、単純に父親への敵意を指すのでもありません。その両方が混在する「アンビヴァレント(両価的)」な状態をいいます。
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの。
「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」(池田澄子)という俳句を最近目にしました。このように、「負ける」といったネガティブな表現と、「蛍」といったけなげな表現が同居するものに出会ったとき(多くの芸術はそういうものですが)、私はいつもフロイトの人間観を思い出します。
私たちはみな、じゃんけんで負けて生まれてきてしまった蛍のようなもの。負け戦なのに、ふわふわと生き、しかもおしりからちいさな光を明滅させている。地獄までも追いかけてくる人間の業を知らされたエディプスは自分で自分の目をえぐり破滅しましたが、私たちは、彼の犠牲を胸に、生きて、せめて蛍の光ほどでも愛の光を放ちつづけていたい。フロイトを読んでいるとそう思えてくるのです。
【参考・引用文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集2 精神分析入門〈下〉』(1970年、東京:日本教文社)
pp. 123-153.