VOL 14|2024年08月号
初めて写真を撮ったのは5年前です。カメラを手に入れるずっと前から、写真は撮っていました。じっと物事を見つめることが好きだったのです。
ウィージーは、泣き叫ぶ母と娘の写真を撮っています。その家族が火事に巻き込まれた直後のものです。世界でもっとも心を揺さぶる写真のひとつですよね。でも、自分だったら絶対に撮れなかったということは分かっています。しかもフラッシュをたきながら、ふたりの顔めがけて撮るなんて。でも同時に、彼があの写真を撮ってくれて良かった、とも思うのです。
ストックカーのレースに出かけたときのことです。車好きの男たちがたくさん集まっていて、酒を飲み、あの、インチキで、いかにも男っぽいガサツな言動で盛り上がっていました。そんななか、ふたりの若者がシボレー・コルヴェアに乗ってやってきました。男たちはその車を踏みつけたり、乗っていた若者を殴ったりし始めました。野次馬に混じって、私はカメラを持ってそばに立っていました。そのときまでは撮影していたのですが、男たちが若者を殴り始めると、殴っている中で一番大きな男に飛びかかっている自分がいました。
それが私のやっていたことです。その日は一晩中眠れず、あの光景を写真に収めなかった自分に腹が立って仕方ありませんでした。人が人の上に乗って殴りかかっているあの光景をね。
【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 214-216.
~フロイト博士の処方箋~
「今日一日だけは、憧れるのはやめましょう。」
嘘みたいな展開が現実となった2023年のWBC。そこで飛び出したのがこの言葉でした。偉業を成し遂げている人の目には、私たちが想像もできないくらい正確に、人間の本質が見えているのかもしれません。だからこそ、「人間」という大切な枠をあえて取っ払ってもよいタイミングはいつなのか、冷静に判断できるのでしょう。
フロイトが、人間が生きながらえるために必要不可欠としていたのも、じつは「憧れること」だったといえます。そして同時に、そうやって生きながらえるために、人はつねに犠牲を払いつづけているとフロイトは考えていました。
遠い存在に憧れることをやめてしまったら、人間は、世界は、終わってしまう。だけど憧れだけでやり過ごせるほど、人間はみじめではない。このことを、大谷選手も、フロイトと同じようによくわかっていたのではないか・・・そんな妄想をかき立てる名言でした。
「われわれは皆病気である。」
さて、こんどはフロイトの名言です。人間など立派なものなんかでは全然なくて、欲望をくじかれた先で、いろいろとこじらせながら、苦しまぎれに生きのびている頼りない存在に過ぎない。これが精神分析の発見でした。
精神分析の理論において、リビドーのたどる道をみるとわかるのですが、じつは、欲望をくじかれた先に「憧れること」があります。憧れることはおよそ誰もが経験すること。そう考えれば、「人間皆病気」といったフロイトの言葉にもうなずけるのではないでしょうか。
リビドーのきた道。
「快感原則」に従うリビドーは、満足を求めても、「現実原則」によって拒絶されるのがふつうです。そこで、満たされぬリビドーは、自分を満足させる道を別に探さなければならなくなります。
まず見出されるのが「退行」の道です。現実に拒絶されたリビドーは、かつて満足を与えてくれた過去の状態や経験に戻ることで、満足を得ようとします。フロイトはこのようにリビドーを惹きつける状態や経験を「固着」と呼んでいます。
固着に誘われ、そこでリビドーがすんなりと満足を得られたなら、いま話題にしている「憧れ」は生まれません。けっして正常とはいえないものの、いたって単純な「倒錯」ということになります。しかし、「自我」がそれに反抗してきた場合、リビドーはまた別の道を模索しなければならなくなります。
“満足とは認められないような満足”。
このように外(現実原則)からも内(自我)からも満足を阻止されたリビドーは、こんどは、無意識のなかにエネルギーを向けるようになります。しかし、思い出してください。無意識に押しこめられているものは、すでに一度抵抗に遭って抑圧されたものだったはずです。ならば、ここでもまたリビドーは道を絶たれてしまうのでしょうか。
いえ。ここでふたたび登場するのが、以前「夢の作業」としても紹介した、圧縮や移動といった、抵抗を回避するための作用です。自我の反抗から逃れようとしたリビドーが、満足を与えてくれる“何か”を無意識のなかに見つけようとするが、その内容はすでにかつて反抗を受けている。そこで、やはり様々な加工をほどこすことで、つきまとう反抗の目をだまし、無意識のなかにあるものを材料に作りあげたものを「代理物」として、そこから満足を得ようとするのです。
こうした事態について、フロイトは次のように説明しています。
「無意識と古い固着を経て、廻り道を通ってリビドーは遂に現実的満足を達成することに成功するのですが、この満足はもちろん途方もなく制限されていて、ほとんどもうそれとは認めがたいようなものです。」
憧れることの意義。
リビドーのたどる道をみるにつけ、人間とはなんと悲しい存在なのかと、自分を抱きしめたくなります。欲望を抱きながらさまざまな障壁に遭い、回り道をたくさんして、結局は「満足らしくもない満足」のかたちになってしまうのですから。
しかし、フロイトは次のように付け足してもいるのです。
「この場合、一方ではリビドーと無意識とが、他方では自我と意識と現実とが、最初からは決して対をなしているものではないにもかかわらず、いかに緊密に結合されて現れているかに注意していただきたい」
たとえさまざまに加工された形であれ、リビドーの回り道によって、無意識のなかにあるものが現実に表現されることは事実なのです。直接的な満足を得ることが許されず、遠くの“何か”に「憧れること」を余儀なくされたリビドー。結局満足らしい満足は得られないにせよ、いま目の前にあるこの複雑で豊かな世界は、私たちのなかにあるリビドーの回り道と「憧れること」なくしてはあり得なかったのです。
そしてもちろん、「憧れること」を「一日だけ」やめたときの、あの快感も。
【参考・引用文献】
ジークムント・フロイト著、井村恒郎ほか訳
『改訂版フロイド選集2 精神分析入門〈下〉』(1970年、東京:日本教文社)
pp. 184-188.