
VOL 27|2025年10月号

~時代と海を超えた、はたらく人々からの手紙~

49歳、男性。駐車場の係員歴30年。ブルース歌手のJimmy Rushingにそっくり。冬の寒い昼下がり、二人そろって安い葉巻をプカプカしながら、車の中で話を聞いた。
「若い頃、新車が入庫してきたときは自分の車だと思ってたよ。いや、自分のものじゃないことはわかってるよ。でもそのとき俺は車を持っていなかったんだ。その後車を持つようになったけど、高い車は買えなかった。だから、誰のものでも、新車を運転するのは最高の気分だったよ。夢みたいだった。
タキシードを着た客が高級車に乗ってやってきたら言うんだ。「うわぁ、すてきな車ですね、お客さん」。そしてその車に乗り込んで運転する。駐車場の中を移動させるだけだから、2~3回バックさせたりする程度だけどね。持ち主の男とその彼女が下りた後の車は、香水のいい匂いがしててさ。俺はこう思うんだ。「なぜ俺は金持ちになれないのか。金をたくさん稼いで、新しい車を買えないのか」。自分は18年間同じ古い車に乗っていたからね。いつの日か俺もっていう思いは強かった。
今、歳をとってみると、車は車だって思うよ。俺が乗ってる65年製のポンティアックはもう7年前の車だけど、それでも自分のものなんだ。その車で楽しまなくちゃ。新車が買えたらいいけど、子どもが3人いるからね。子どものために必要なものが他にあるんだ。
若い頃の俺はマジで腕が良かった。ある日、背の高い客が来て言われたんだ。「シートを引いたほうがいいんじゃないか」。俺の足がブレーキに届かないと思ったんだな。俺は「私は絶対にシートを動かさないんだ」と言って運転席に乗り込むと、そのまま片手でハンドルを回して一発で決めたよ。駐車するときにドアを開けたりもしないし、バックミラーだけでやってのける。だからみんな俺の事を「忠実な魔法使いのアル」とか、「一回しのアル」とか呼んでたんだ。
俺は最高の一人だったよ。客が「あんたは絶対に失敗しないよね」と言うから、俺は「手を滑らせれば失敗すると思うけど、そんなに滑らせないからな」って返すんだ(笑)。どんなに大きい車でも、どんなに小さい車でも、気にしない。俺のスウィングに外れなしさ。」
~今月のリアルヴォイス~
“I never missed my swing.”
(ハンドルさばきは絶対に失敗しなかったよ。)
*miss=失敗する、逃す *swing=ひと振り、一撃
【出典】
Studs Terkel,
Working: People talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do,
New York: Ballantine Books, 1985, pp. 297-302.

~フロイト博士の処方箋~

目覚めているときの世界と、眠っているときに見る夢の世界は、つながっているのか否か。このことに関して、フロイトより前の学者たちの考えはさまざまだった。
たとえば、ある生理学者は「夢は、われわれをそういう覚醒時の生活から解放しようとする」と考えた。同様に、「夢を見る者は、覚めた意識の世界に背を向けている」という研究論文を書いた者もいた。
しかし多くは、これらとは反対の意見だった。「夢というものは覚醒生活の続きである」とか、「われわれは、われわれが見たりいったり欲したり為したりしたことを夢に見る」と考えた人々が大半だったのである。ある哲学者は次のように述べたという。
「われわれはもっとも頻繁に、われわれのもっとも烈しい情熱が向けられている事柄についての夢を見るという私の主張は経験の立証するところである。夢を作るさいに有力なはたらきをするのはわれわれの情熱であるということがこれでよくわかる。功名心に駆られた人間は、(おそらくただ想像上で)獲得されたかないしはこれから獲得されようとする月桂樹を夢見るし、恋人は夢に相手の姿を見る。」
夢の生活と覚醒時の生活とはつながりがあるのか否か? 解消しがたいこの対立にたいし、フロイトは、F・W・ヒルデブラントという人の意見を紹介している。その意見は、解消しがたいと思われた対立をうまく溶かしてくれる。
彼はまずこう述べる。夢は、覚醒時の現実からは切り離された、それ自体でまとまりをもったひとつの存在である、と。そうして夢は私たちを「全然別の生活史」の中へ連れてゆくのである。
たとえば、船旅をしたこともなければ、ワインを売ったこともなく、ましてやナポレオンが生きていた時代とは全然別の時代に生きている男が、次のような夢を見たりする。

【夢の実例】男が、船旅でたどり着いたセント・ヘレナ島で、囚われの身となっている元皇帝ナポレオンにワインを売りつける。ナポレオンは喜んで購入する。
確かにこうした夢は、彼が生きる現実とは縁もゆかりもない「異質なもの」というほかない。「ところが」と、ヒルデブラントは続ける。こうした夢の「まとまり」や、覚醒時の現実との「断絶性」こそが、夢と現実とのつながりを示すものなのではないか。たとえ夢に何を見ようとも、その材料は、現実や、現実において繰り広げられた心の動きや思考から採ってこられた、といって差し支えないのではないか。
夢がどんなに奇妙でも、現実の世界から切り離されたものであることは決してない。夢が持つ独自のまとまりの背後には、かならず、私たちが目覚めているときに経験した、まとまりを持った諸々がある。つまり、夢は、私たちが外的または内的にすでに体験したものを材料にせざるを得ないのである。
【参考・引用文献】
ジークムント・フロイト著、高橋義孝訳
『夢判断(上)』(1969年、新潮社)
pp. 19-26.